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【三国志】史実武将 能力編集メモ ④(エ-3)

三國志14 with パワーアップキット

三国志信長の野望をやるときに武将の能力を細かく調整するのが趣味なんですが、何を根拠に自分がそういう調整を行ったのかがわからなくなることが多いため、メモとして残すことにしました。

三国志のエディットは「史実に寄せる人」と「演義に寄せる人」で分かれると思います。自分は基本的に史実と演義のいいとこ取りをする方針です。そのため、全体的に数値がインフレ化する傾向にあります。

また、各内容はインターネットで5分程度で調べて適当に解釈したものなので、間違っている可能性がかなりあります。

ステータス・スキルセットは三國志14PKの物です。主義・政策は調整による影響力が強すぎるので基本変えてません。

全武将の編集を目指しています。五十音順に気が向いたときに載せていく予定。
1記事5000~8000字ぐらいで区切ってます。女と古武将(いにしえ武将)は使わないので編集しません。

 

 

袁紹 エンショウ

83 74 64 86 79

個性:名声 英名 人脈 剛将 胆力
戦法:袁家栄光 鯨波 治療 連弩 火矢 衝車  投石
陣形:魚鱗 雁行 鶴翼 衝車 投石

演義・正史の両方で登場。
四世三公の名門、袁家の出身。袁術の従兄(異母兄?)で袁術より年長にあたるが、袁紹は母の身分が袁術よりも低かった、或いは袁紹が幼少の頃に実父が死んだため袁術の父に引き取られた、または本来継承順位二番手だった袁術が養子に出された後に嫡男が若死し妾の子である袁紹が本家を継ぐ流れになり袁術との確執が生まれたなどの説がある。ともかく袁術のほうが血統は上だったらしい。
袁紹は快活で威風堂々としていながら謙虚な一面もあり、人望が厚かった。若き日の曹操とも友人関係となっている。次代の袁氏の長は袁術袁紹のどちらかであると目されており、袁紹と交友を結んだ名士たちは袁術と会うことを避けたので、袁術は自分よりも人々に評価されている袁紹を激しく妬み敵対視した。袁紹は都で名士と交流を深めて声望を高めながらも漢朝への出仕は断り続けたため、独自の勢力を形成して反乱を企てているのではないかと疑われ始め、叔父の袁隗に「袁家を滅ぼすつもりか」と叱責されようやく官職に就いたという。すぐに中郎将まで昇進し、中軍校尉も兼任した。
霊帝崩御し宦官と何進が対立するようになると何進陣営の中心人物となった。兵権を与えられ諸侯を洛陽に召集して決戦に備えたが、この動きは宦官側に筒抜けであったため、先に何進が暗殺されてしまった。このとき袁紹は宮中に兵を率いて乱入し宦官を皆殺しにして政争を制した。しかし一連の混乱に乗じて洛陽に入った董卓が台頭し始めると武力を背景に力を増す董卓に対抗できず、都を去り冀州に逃亡した。
翌年には橋瑁の呼びかけで反董卓連合が結成され、諸将に推薦されて盟主となる。袁紹は布陣したまま時を過ごすばかりで洛陽まで兵を進めようとしなかったため、早期の決着を主張する曹操らからは批判された。対する董卓は洛陽を焼き払い長安への遷都を行うことで決戦を避けた。このときに都に居た袁氏一門はみな処刑されている。
袁紹献帝の安否が不明となったことを理由に帝室の血縁である大司馬の劉虞の擁立を諸侯に提案したが、これは反対を受けて実現しなかった。董卓から奪い返した洛陽は焼け野原と化しており軍勢が落ち着ける拠点もなく、諸侯の間では方針を巡る対立や主導権争いが起こり始め、各々が勝手に離脱するなどして連合は瓦解し、後漢は群雄割拠の時代に入った。
この時期は袁紹袁術が二大勢力と目されており、周辺の諸侯は大別してこのどちらかにつく形で争った。冀州に戻った袁紹は隣国の幽州で拡大する公孫瓚に対抗するため、周辺勢力を傘下に入れて吸収し、冀州牧の地位を譲り受けることに成功した。また、袁術豫州刺史に任じた孫堅を妨害するためにこちらも周昂を豫州刺史に任命して洛陽に入った孫堅と戦わせた。公孫瓚袁術軍(=孫堅)を支援するために従弟の公孫越を送ったが、公孫越が周昂との戦いで戦死したため憤激して袁紹との本格的な武力抗争を開始した。袁紹は自ら軍を率いて公孫瓚の軍を撃破し、後背を襲ってきた黒山賊の軍にも勝利した。
長安から落ち延びた呂布が頼ってきた際にはこれを受け入れて黒山賊の討伐に用いた。呂布は次第に戦功を誇って横柄な態度をとるようになり、鼻持ちならならなくなった袁紹呂布を殺してしまおうと考えたが、呂布を敬愛していた張邈に止められた。張邈は以前にも袁紹の奢った振る舞いを諫めたことがあり、この件で袁紹とはますます不仲になっていった。また、この時期には袁紹が周囲の者を重んじる心を失い「第二の董卓になろうとしている」として鮑信が曹操に独立を勧めている。
公孫瓚との緒戦に勝利した袁紹だったが、渤海郡の公孫瓚が籠る城を攻略することができず、退却しようとしたところに攻撃を受けて大敗する。この一戦をきっかけに公孫瓚は盛り返して再び南進を開始し、一進一退の長期戦は2年にも及んだ。
兗州黒山賊の活動が目立ち始めると曹操を東郡太守に任じてこれを抑えさせ、青州には臧洪を派遣し公孫瓚サイドの田楷と対抗させた。また、荊州劉表を動かし袁術の背後を突かせた。袁紹は以後も曹操を強く支援し、曹操もその力を利用して次々に戦果を挙げたため、やがて曹操袁紹と並び立つほどの勢力を持つに至ったが、曹操献帝を擁立した際には袁紹は人事に干渉し曹操を差し置いて大将軍の地位を獲得しており、この時点ではまだ明確に曹操より優位な立場を保っていた。
袁紹が各地で自分の傘下にある諸侯を使って袁術を中心とする敵対勢力との戦いを有利に進めつつ自らは隣国の公孫瓚を滅亡寸前まで追い詰めていた一方で、曹操は近隣に呂布、張繡、袁術劉表などの敵対勢力が多数健在であったために袁紹に対して長らく敵対姿勢をとれなかったが、張繡と呂布を滅ぼした頃にはその野心を隠さなくなり、両者の対立は表面化していった。
劉備が徐州で曹操に対して反乱を起こして支援を求めてきた際には軍師格の田豊が「この機会に曹操と決戦するべき」と進言したが、袁紹は子供の病を理由に派兵を断った。劉備曹操に敗れたのちにようやく袁紹曹操との戦いを決断したが、この時には軍内で意見が大きく割れ、沮授と田豊が持久戦を主張し、郭図と審配は早期決着の方針を主張した。袁紹は後者の案を採用し、なおしつこく反対意見を主張し続ける田豊を投獄した。
曹操との戦い(官渡の戦い)においては緒戦で早々に主力武将の顔良文醜を討ち取られてしまう。しかし袁紹軍は兵力規模で曹操軍に勝っていたため、時がたつにつれて袁紹側が有利に進んでいった。半年近く戦った頃には曹操の勢力圏内で賊の反乱が起き、袁紹劉備を派遣してこれを支援した。この頃には曹操軍は兵糧の不足に苦しみ始め、曹操が一時弱気となって退却案を荀彧に相談している。
しかし袁紹軍は戦いを有利に進めていたにも関わらず、軍内では軍権や発言力を争って激しい不和が発生しており、参謀の許攸が曹操に投降して鳥巣に設置された兵糧庫の位置を暴露した。沮授が兵糧の守りを固めるよう再三進言したが袁紹はこれを容れず、郭図の提案したむしろ鳥巣を囮として曹操の本陣を突く案を採用した。結果、鳥巣の兵糧を失った上に曹操本陣への攻撃も失敗し、高覧や張郃といった将軍たちが曹操に寝返ったため、この戦いにおける袁紹の敗北は決定的となった。
戦後には領内各地で反乱が起こったが、袁紹は素早く軍を立て直してすべての反乱を鎮圧して隙を見せず、曹操袁紹の存命中には河北に侵攻しなかった。しかし間もなく袁紹は後継者を決めずに病死し、結局袁氏は後継者争いを起こしたところを曹操に付け入られ滅亡した。袁紹の政治は民衆に評判が良かったため、袁紹が病死した際には河北の民はみな嘆き悲しんだという。

結構省いたけどさすがにめちゃくちゃ長くなった。
マイナスイメージの根拠から。「沮授と田豊の案を採らずに郭図に乗ったのがアホすぎる」みたいに言われがちだけど、前者の案なら勝ってたのかつったら実際わからんくない?どっちの案を採用したとかより家臣の派閥争いをコントロールできなくて一丸となれなかったのが悪い気がする。陣営の敵意が内に向きすぎ。あと「反董卓連合のときにびびって軍を進めなかった」って話も結果的には長安まで敵を退けてるし、董卓は勝手に死んでるし普通に正解じゃないか?徐州で劉備が反乱起こしたときは「このときに行っとけば曹操に勝てた」ということになってるけどそんなんわからんし、優柔不断って言われてる根拠には全部あんまり同意できないので優柔は消した。
高慢で自分の思い通りにならないやつは排除するってイメージの元になってる田豊を投獄した話も実際今から決戦するぞって時にこんなやついたら普通に困るでしょ。郭図の策で負けた結果論で言われてるだけ感ある。呂布が激ウザキャラなのは他の人の話読んでても間違いないし、鮑信は曹操ファンクラブ会員だから袁紹の悪口言っててもどうだろって感じ。
郭嘉荀攸から仁政を評価されて「息子がバカなのに河北で袁氏がまだ支持されてるのは袁紹のおかげ」とまで言われているので政治は良かったんだろうけど、曹操劉備のように家臣を心服させてひとつの方向を向かせるみたいな能力が全然無かったから負けたって印象。派閥の統制やガス抜きができてないから官渡で勝ってたとしてもその後どうなったかは結構怪しい。
物量で押してふんぞり返る的なイメージが染みついてるけど実は劣勢に強くて、公孫瓚に負けかけたときも踏みとどまって返してるし、曹操に官渡で負けた後も領内の反乱を潰して立て直している。遡れば宦官皆殺しとかも窮地からの巻き返しだし案外追い詰められたときのほうが地力出るタイプなんかも。個性は名声、英名、人脈、剛将、胆力で赤は無しにした。下げたい部分がゲーム内の要素では表現しづらい・・・。知力と魅力をちょっと凹ませるぐらいしかないかな。家臣の忠誠がジリ下がりするみたいな赤個性あったら付けたんだけど、自作でも出来ないっぽい。

 

 

閻象 エンショウ

29 27 63 63 66

個性:諫止 沈着 論客
戦法:投石
陣形:投石

演義・正史の両方で登場。袁術軍。
袁術の主簿。袁術が自ら皇帝を名乗る案を配下に披露した際に周りの者が沈黙する中でただ一人進み出て周の文王が天下の三分の二を領有しながらも皇帝の臣下であり続けた故事を引用し、袁術を諫めた。袁術は閻象の諫言を容れて一度は思いとどまったが、結局のちに皇帝を僭称した。

このエピソードしか出てこない。演義でもまったく同じ。これだけで知力70政治74は無理でしょ......。誠実さとか勇気とかは魅力で表現する方向なので魅力はアップ。政治と知力は下げたけど、個性に沈着と論客を付けた。

 

袁譚 エンタン

72 69 47 39 59

個性:短慮 名声 遠矢
戦法:奮戦 足止 罵声 斉射
陣形:鋒矢 雁行 方円

演義・正史の両方で登場。袁紹軍。
袁紹の命によって伯父の養子となり、青州へ派遣された。伯父の養子に出されたのは袁紹が三男の袁尚を後継にしたかったためといわれる。沮授がこの方策に反対して後継者争いの原因になると諫めたが、袁紹は耳を貸さなかった。
青州では公孫瓚が送り込んだ田楷、青州刺史の孔融らと三つ巴の戦いを繰り広げた。やがて袁譚孔融の籠る城を攻略して妻子を捕虜にし、その功で青州刺史に任じられた。このように軍功を挙げる一方で、統治においては自分に都合の良い言葉を吐く奸臣の話ばかりを聞いたため、青州の政治は乱れた。袁譚は優れた人材を集めることを趣味としており、名士や賓客を厚くもてなしたが、その意見を聞いて容れることはあまり無かった。官渡の戦いでは袁紹に従軍している。運命の分かれ目となった曹操の鳥巣攻撃の際には沮授の鳥巣防衛に全力を傾ける案に同調したが、容れられなかった。
袁紹の死後は郭図と辛評に推され弟の袁尚と後継の座を争った。曹操との戦いが終わっていないにも関わらず勢力の内部分裂を引き起こしたため、兄弟間で援軍を拒否するなどして曹操軍との戦いで大きな不利を招き、袁氏の勢力は急速に縮小した。曹操が鄴まで侵攻した際には袁尚が戦ってこれを撃退し曹操は許まで後退したが、これまでギリギリの線で協力していた袁譚袁尚は戦後処理で決裂し、目前の危機であった曹操軍が去った途端に直接の武力抗争を開始した。袁譚の先制攻撃は失敗し、袁尚の反撃を受けて敗退した。王修が兄弟で争うことを強く諫めたが、袁譚は聞き入れなかった。袁尚との直接対決に敗れた袁譚曹操を頼ることに決め、娘を曹操の息子と縁組して曹操に降伏した。曹操軍が来援すると兄弟の争いは袁譚側が優位に立った。
曹操との共同戦線においては曹操軍が鄴を包囲している間に袁譚が手薄な都市を次々に攻略して敗残兵を吸収したため、急速に勢力を回復した。この動きに曹操は黙っておらず、盟約違反であるとして同盟を破棄し再び袁譚と戦う構えを見せた。袁譚は南皮で一度は曹操を破ったが、結局は敗れて逃走しようとしたところを曹純に捕まり斬られた。

デフォの能力ほどは悪くない印象。青州では勝ってるし統率60はちょっと低すぎると思ったので上げ。個性に功名、直情、軽率と赤が山盛りにされてるけどそこまででもないような・・・不仲の三男に後継主張されて戦うのは当たり前の自衛で別に功名心の発露ではないでしょ。赤は短慮1枚にして名声、遠矢を付与。曹操に降伏したのってそりゃ良かないけどそのまま袁尚に負けるよりはマシなムーブだし知力30にするほどか?って感じなので「どちらかというとバカ」ぐらいまでは上げた。他は据え置き。「優れた人材を集めるのが趣味だったが自分に都合のいい言葉だけを聞いた」の部分、わかるなあ~ってなった。普通はそんなもんだよな。

 

 

閻圃 エンホ

31 25 82 82 79

個性:教化 米道 工面
戦法:治療 鎮静
陣形:長蛇 井闌

演義・正史の両方で登場。張魯軍。
張魯の功曹。漢中の住民が張魯に玉印を献上し、張魯が漢中王を名乗ろうとした際に「現在でも漢中を完全に掌握して治めており、あえて王を名乗る意味もない」と諫めた。曹操が漢中に侵攻した時には降伏しようとする張魯に「一度も戦わずに降伏しては曹操に軽く見られる」と説得し、張魯はこの意見を容れて抗戦してから降伏した。この話を聞いた曹操は閻圃を評価して張魯の子らとともに爵位を与えている。魏では建節将軍に上り、爵位も進めて出世した。曹丕の代には朝議の席で礼遇される身分になったという。
演義では役割が異なり、正史とは逆に劉璋を討伐して漢中王の座につくよう張魯に勧めている。曹操が侵攻してきた際には龐徳を将軍として抗戦を主張するが、楊松の讒言により阻止された。

功曹っていうのは人事局長のことらしい。演義で「ザコの劉璋倒して蜀取ろうぜ(劉備がこれやって成功した)」って言ったところと「龐徳なら曹操軍に勝てる(龐徳はこの後曹操軍に入って活躍している)」って言ったところが両方正解だったから賢い!みたいな評価。正史の出世は普通にすごいし右側はちょい増しでもいいかな。個性は元から十分強いのでそのままにした。

 

袁燿 エンヨウ

41 48 52 54 62

個性:名声
戦法:火矢 駆逐
陣形:雁行

正史のみ。袁術軍。
袁術の子。袁術が病死したのち、叔父の袁胤に守られて劉勲の庇護を受けた。孫策が劉勲を攻めた際にその捕虜となったが、姉妹が孫権の側室となったため袁燿も一族として優遇され郎中に任命された。のちに娘が孫権の子の孫奮に嫁いでいる。

なんでデフォ個性で強欲?特に何もしてないけど余計なことをしなかったとも見れる。姉妹と娘が孫権父子に嫁いでいるあたり、貴種として飼われてたみたいな感じなんかな。父親と違ってとりあえず大人しくする分別があるだけ賢いと思う。政治と知力はちょっとだけ上げた。個性は動員と強欲を消して名声に。軍事面ナーフしようかと思ったけどデフォでも別に使うような性能でもないしそのままにしておいた。